【FAKEBOOK BUSTER】国連人種差別撤廃委員会での山下英次大阪市立大学名誉教授の素晴らしい発言 2018/09/02
- 2018/09/02
- 16:53
国連人種差別撤廃委員会へのペーパー(邦訳):日本の人種差別撤廃提案100周年
「パリ講和会議の国際連盟規約委員会における日本の
人種差別撤廃提案から100周年」(邦訳)
2018年7月15日
不当な日本批判を正す学者の会(AACGCJ)
e-mail: aacgcj@gamail.com
イントロダクション
国連人種差別撤廃委員会(CERD)の対日審査が、日本の人種差別撤廃提案から100周年を迎えるこの時期に開催されることは、日本にとって喜ばしいことである。1919年2月13日、日本政府は、ヴェルサイユのパリ講和会議における国際連盟規約を草案する委員会で、人種差別の撤廃が明確に規約に盛り込まれるよう最初に提案した。日本は、明らかに、この点に関し、国際社会のパイオニア(先駆者)である。日本の人種差別撤廃提案は、人種差別撤廃条約(ICERD)が1969年に発効するちょうど半世紀前に当たる。
日本は、何十年にもわたって人種差別に悩まされてきたからこそ、この分野のパイオニアになったのである。日本は、この一世紀の間、人種平等運動のリーダーであったが、将来的にも、パイオニア、そしてリーダーとして、積極的に貢献していくものと思われる。
国連人種差別撤廃委員会(CERD)と日本政府は、2019年2月の日本の人種差別撤廃提案100周年を正しく認識し、尊重していただきたい。
日本の人種差別撤廃提案とその背景
日本は、明治期の19世紀のうちに、国家の近代化と工業化を成し遂げた唯一の非白人国家であったことから、欧米諸国から人種差別を受け、長年にわたり耐え忍んできた。1890年(明治23年)は、政治的にも経済的にも、日本の近代化にとって象徴的な年となった。1890年に、当時としては、国際的にも進歩的で民主的な大日本帝国憲法が施行され、立憲君主国家としての礎が築かれた。それと同時に、国会も開設された。また、1890年、日本の工業品の国内生産が、輸入工業品を量的にはじめて上回った。
1895年3月、日本は、日清戦争(1894~1895年)に勝利した。日本は、1895年4月17日の「下関講和条約」で、南満州の遼東半島(含む旅順港)を割譲された。換言すれば、日本は、完全に国際法の枠組みの下に、これらの領土を獲得した。しかしながら、「下関講和条約」の直後、強大な軍事力を背景としたロシア、ドイツ、フランスの三国干渉によって、遼東半島を中国に返還せざるを得なくなった。ロシア主導の三国干渉は、国際法を踏みにじるものであり、欧州列強が従来から行ってきた不公正かつ強制的な要求の古典的な例である。
それと共に、日本の日清戦争(1894~1895年)の勝利から程なくして、ヨーロッパにおいていわゆる「黄禍論(こうかろん)」の恐れが出てきた。ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、1895年夏、「ヨーロッパの諸国民よ、汝らの最も神聖な宝を守れ!」というタイトルの寓意画を、ロシア皇帝ニコライ2世に贈った。この寓意画が、後に、「黄禍の図」と呼ばれるようになり、これが、ヨーロッパにおける「黄禍論」の端緒とされるようになった。
他方、日本は、欧米諸国との間で結ばれた不平等条約の改定に苦しんだ。アメリカとの条約改定過程を例にとると、幕末の1858年に結ばれた日米修好通商条約でアメリカに与えられた治外法権の撤廃に成功したのは、1894年(明治27年)11月であった。さらに、日本が関税自主権を確立したのは、1911年(明治44年)2月であった。すなわち、この時点で、ようやく、江戸期に結ばれた日米修好通商条約の改定に最終的に成功したのである。
1906年3月、米国カリフォルニア州議会で、最初の排日移民法が成立したが、その後、その都度、強化された形の法案がいくつも成立した。1913年4月には、日本人移民の土地保有を制限する「ウェッブ=ヘイニー法」、さらに、1920年11月には、米国籍を有する日本人移民の子供に対してさえも土地所用を制限する「インマン=マクラッチー法」が成立した。
さらに、米連邦議会においても、1924年11月、実質的に日本人移民を標的とした絶対的排日移民法である「ジョンソン=リード法」が成立した。日本を標的にしたこうした一連の人種差別的な法律に対して、日本国民の多くが、怒髪天を突くというほど激怒した。また、親米の日本人である新渡戸稲造、内村鑑三、芦田均などでさえも、「ジョンソン=リード法」の成立に大いに憤慨した。この法律は、ある特定の民族を狙い撃ちにした弁明の余地のない人種差別の形であるとして、彼らは、二度とアメリカには行かないと言明したほどである。
ところで、欧米列強の植民地は、西暦1800年前後には、世界全体の35%を領有するものであったが、第一次世界大戦(1914~1918年)前には、84%にまで拡大していた。すなわち、19世紀は、欧米列強の植民地が、世界の至るところで急拡大した時期である。われわれは、こうした当時の時代背景を理解しておく必要がある。
こうしたことを背景に、1919年2月13日、日本政府は、ヴェルサイユのパリ講和会議における国際連盟規約を草案する委員会で、人種差別の平等を最初に提案した。具体的には、第21条の宗教に関する条項で、人種差別の撤廃を明確に謳うよう提案した。しかしながら、日本の提案は、主として、オーストラリア、アメリカ、イギリスの反対遭い、受け入れられなかった。
1919年4月11日、パリ講和会議における国際連盟規約を草案する委員会の最終会合で、日本政府は、規約の前文に、人種差別の撤廃を明確に盛り込むよう二度目の提案を行った。提案は、評決に付され、日本提案は、委員から「11対5」の圧倒的多数の支持を得た。フランス、イタリア、ポルトガル、ギリシャ、チェコスロヴァキア、中国などが日本提案に賛成し、他方、アメリカ、イギリス、ブラジル、ポーランド、ルーマニアが反対した。しかしながら、委員会の議長を務めた米国大統領のウッドロー・ウィルソンは介入し、このような重要案件については全会一致がしかるべしとして、多数決による表決を覆した。日本代表の牧野伸顕とフランス代表のフェルナン・ラルノードウが異議を唱えたが、ウィルソンは、彼らの申し立てを退けた。
この時期に日本が人種平等を提案した背景には、おそらくいわゆる「大正デモクラシー」の機運があったものと思われる。日本の民主主義は、大正期(1912~1926年)に高まりを見せた。例えば、日本で男子普通選挙制が導入されたのは1925年であり、イギリスのそれ(1918年)より僅か7年遅れたに過ぎない。
日本人に対する差別意識は、結局のところ、日米戦争(1941~1945年)につながった。日米戦争は、1941年12月に始まったが、翌年の1月、日本の総理大臣は、国会における演説で、日本の戦争目的は、アングロ・サクソンの植民地主義の桎梏から世界の抑圧されたすべての民族を解放することにあると宣言している。また、日本のもう一つの戦争目的は、共産主義との戦いであった。1936年11月25日、日本は、ドイツと「日独防共協定」を合意したが、これは、ソ連と第3インターナショナルに対抗し、コミンテルンと戦うことを目的としたものであった。
しかしながら、米国大統領のフランクリン・ルーズヴェルト(FDR)は、1936年から1938年にかけて、3回にわたるモスクワ裁判を通じて、スターリンが自国民を百数十万人粛清したことを承知していたにもかかわらず、第二次世界大戦前、ソ連の絶対的独裁者であるスターリンと手を組んだ。第二次世界大戦におけるFDRの決定は、世界史における途方もなく大きな過ちとして認識されるべきである。
第二次世界大戦中の1943年11月、日本政府は、アジアの他の6カ国を東京に招いて、大東亜会議を開催した。その際、人種差別の撤廃を謳った「大東亜共同宣言」が発表された。これは、フランクリン・ルーズヴェルト米大統領とウィンストン・チャーチル英首相による「大西洋憲章」とは趣旨が全く異なるものであった。1941年8月14日、大西洋上に浮かぶ英軍艦「プリンス・オブ・ウェールズ号」で行われたこの会談では、人種の平等や植民地の解放については、全く触れられていない。すなわち、「大東亜共同宣言」は、人権や民主主義という点で、「大西洋憲章」よりはるかに優れていた。しかも、大東亜会議は、日本に加え、中華民国、満州帝国、フィリピン、ビルマ、タイ王国、自由インド暫定自治政府のアジアの7カ国の参加を得たものであるが、これは、非白人だけによる世界初の首脳会議(サミット)だとされている。
日本は、長年にわたり、人種差別の最大の犠牲者だったことから、日本が世界において、人種差別撤廃運動のパイオニアになったことは、極めて自然な成り行きである。このように、日本は、反人種差別運動の先駆者およびリーダーとして最も相応しい。人種差別は、明らかに第二次世界大戦の最も大きな要因の一つとなった。
第二次世界大戦の最も重要な教訓
世界史において、人種差別は、第二次世界大戦についてだけでなく、米国の公民権運動にかかわる紛争や南アフリカの反アパルトヘイト闘争などを含め他の闘争や紛争においても、人道上ひどい大惨事をもたらしてきた。これは、将来に受け継いでいくべき最も重要な教訓である。
第二次世界大戦の最も重要な政治的な要因は、一つは共産主義の興隆と広がり、いま一つは欧米諸国における人種差別である。経済的な要因として最大のものは、1929年10月、ウォール・ストリートの株価の大暴落とそれを源とした1930年代の世界大恐慌である。さらに、大恐慌への対応として、欧米諸国によって経済がブロック化したことも、事態の悪化に拍車をかけた。このように歴史を振り返ると、第二次世界大戦の大きな要因は、ほとんどすべて欧米諸国に原因があると容易に理解することができる。
日本の人種平等運動と世界史への含意
日本は戦争に負けたが、この分野における日本の努力の累積は、第二次世界大戦後、アジアだけでなく、他の地域の多くの発展途上国においても大きな実を結ぶこととなった。多くの国々が、西欧の植民地から解放され、最終的に独立と民族自決を達成した。
アジアを例にとると、1947年7月にラオス、1947年8月にインドと東パキスタン(現在のバングラデシュ)を含むパキスタン、1948年2月のセイロン、1950年8月にインドネシア、1953年11月にカンボジア、1954年7月にヴェトナム、そして1957年8月のマレイシアがそれぞれ独立を達成した。実際に、第二次世界大戦後、イギリス、フランス、オランダは、彼らの植民地を奪い返すために、アジアに戻ってきた。しかしながら、戦争中における日本の行動によって大いに勇気づけられ、大きな影響を受けたアジアの人々は、独立の精神を獲得していたために、西欧諸国の試みは失敗に帰した。すなわち、西欧諸国は、戦後においてすら、植民地撤廃の意思を示していなかったのである。これは、1941年8月の米英の「大西洋憲章」の精神と整合的であり、他方、日本が主導した1943年11月の「大東亜共同宣言」の精神とは、完全に相入れないものである。
われわれは、人種差別主義に対する戦いにおいて、日本が国際社会に果たした多大なる貢献に対して、非常な大きな誇りを持っている。国家の独立、民族自決、人権擁護に対する影響という意味で、このように偉大な結果を残した国が、これまでの人類の歴史上、他にあったであろうか?
第二次世界大戦後、多くの国々が独立したのに続き、アメリカで、1964年7月2日、公民権法が発効し、1994年4月には、南アフリカでアパルトヘイトが全廃されるなど、人種平等の分野で大きな進展があった。全般的に、欧米諸国における人種平等運動は、日本に比べ、かなり遅れてきた。
人種差別撤廃条約(ICERD)は、1965年、ニューヨークの国連総会で採択され、1969年にようやく発効した。これは、パリ講和会議における日本の人種差別の撤廃提案からちょうど50年後に当たる。その後、時間の経過と共に、ジュネーヴの国連人種差別撤廃委員会(CERD)が回を重ね、2018年8月に、第96回目の会合が開催されるに至ったことは、大変喜ばしい限りである。日本は、今後とも、人種平等運動のリーダーおよびパイオニアとして、熱心に活動・貢献していくものと、われわれは確信している。
結論
国連の人種差別撤廃委員会(CERD)と日本政府には、2019年2月に向けて、日本の人種差別撤廃提案100周年を世界に周知することを期待したい。日本は、この分野における真のパイオニアであり、100周年について広まれば、国際的な人種平等運動の勢いを取り戻すことに何らかの貢献ができるのではないだろうか。
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